
磐井の乱 磐井の実像を探る
記録は 古事記・日本書紀と筑後国風土記の逸文だけ
古事記には 継体天皇の御世に「竺(筑)紫の石(磐)井 天皇の命に従はずして 多く礼無かりき。故 物部荒甲(あらかい)の大連 大伴の金村の連二人を遣はして 石井を殺したまひき」(憲司憲司より)とあるだけだ。
日本書紀には「527年に近江の毛野臣が六万の兵を率いて任那が新羅に奪われた地を任那に復帰させようとしたとき 筑紫国造磐井が反逆を企てたことを知った新羅は 磐井に賄賂を送って毛野臣軍を妨害するように仕向けた。磐井は 肥前 肥後 豊前 豊後を抑えて海路を遮断し 高麗 百済 新羅 任那などが貢ぎ物を運ぶ船を奪って毛野臣軍を抑えた」。また 継体天皇21年(527)8月 継体天皇は「物部麁火(あらかい)大連に 長門より東は自分が治める 筑紫より西はお前が治めろ」と言って印綬を授けた。麁火は翌528年11月に磐井と筑紫の三井郡で交戦して磐井を鎮圧した。同年12月「磐井の息子の葛子は 糟屋の屯倉を献上して死罪を免れた」と言った旨の記述がある(宇治谷孟より要約)。
政治色豊かな日本書紀の編纂方針
日本書紀の成立は養老4年(720)とするのが一般的。編集は 複数の撰者・著者による。特に百済を中心に朝鮮諸国の事情について詳しく記述している。
歴史の記録には書記官の存在が不可欠。5世紀後半6世紀からにかけて 倭王権の下に史(フミヒト)と呼ばれる書記官が登場する。フミヒトの多くは渡来人。欽明期(531~571年)の百済からのフミヒトの到来を経て制度化されていった。
特に継体天皇を取り扱った大部分を百済関係の記事が占め 天皇の崩御年なども百済系の史書によって決定されている。編纂は皇室や氏族の歴史上の位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編纂方針の決定や原資料の選択は政治的に有力者が主導したものと推測されている(以上:ウィキペディアより抜粋)。
古墳に遺る記述の筑後国風土記(逸文)には「上妻の県(八女郡東北部)の南方8㎞に磐井の君の墳墓がある。大きさは 高さ21m 南北に180m(現状は138m) 東西に120m(1丈を3mで計算)石人60枚と石盾60枚を交互に巡らしている。東北の位置に政を行う衙頭(がとう)があって中に石人が立って その前に偸人(ぬすびと)が地に伏し側に石猪が4頭 石馬が三疋 石の殿が三間 石の倉が二間ある。磐井は前もってこの墓を造っていた。戦に敗れた磐井の姿を官軍は見失ったので 石人の手を折り石馬の頭を落とした」と言った旨記されている(吉野裕より要約)。現在も当時石で造った人・馬などの像と古墳が多数ある。
継体天皇の項に安曇族が出て来ない不思議
日本書紀にある「毛野臣が六万の兵を率いて・・・」の記述。六万の兵を動かすのに陸路でなく海路だと船が必要。例えば100人乗りの船を使ったとすれば600隻(2回分乗でも300隻)必要 50人乗りだと120隻隻。どこの港に入ったのかは解らないが 当時 船を泊める波浪の影響を受けない静穏性が高い港は河口や河川に限られる。600隻~300隻船船が停泊できる港が在ったとは考えられない。それに 六万の兵の食料輸送・確保も考え合わせると この六万の兵云々の数字は信じられない。
日本書紀に「磐井が海路を遮断」(難癖?)とあるが 磐井が海人だった記録も 海を渡って交易をしていた記録も無い。では 海路を遮断したのが磐井でなければ 誰なのか書紀の記述だけではわからない。
歴史記録の中で初めて屯倉(みやけ)が記述されたのは この磐井の乱に出て来る糟屋の屯倉(日本史広辞典)。その後 大和朝廷は 各地に屯倉を設置して朝廷直轄の統治機関の一翼をになう組織の一環にする。
糟屋の屯倉について 福岡県志免町教育課は「おそらく稲の収穫を中心としていた土地ではなかったかと思われる。実際何処に在ったのかは諸説あり 古賀市の田淵遺跡 粕屋町の古墳などあるがいずれも確証がない」と言った旨記述している。
何も屯倉があった位置を古墳と重ねることもないだろうし 糟屋の地を現在の粕屋町にこだわることもない。むしろ 穀物の米を保管する事など荷物の出し入れすることを考えると 輸送は船を使っただろうから川の側の小高い所や自然良港がある島などが適地ではないだろうか。それにしても葛子が献上した屯倉があった場所は 磐井の根拠地の八女市(筑後)と筑前の古賀市・粕屋町は遠く離れている。それに 新宮町も含めた筑前の地に阿曇の地名(現在地は不明)があったことは和名類聚抄に記録されている。これは 現在の福津市・古賀市・新宮町・粕屋町の一体に安曇族の根拠地があったことを示していると解する事も出来る。これらのことを考え合わせると 糟屋の屯倉を阿曇の屯倉ではなくて磐井の屯倉とした書紀の記述は疑問だ。
書紀の神功皇后の項 及び 応神天皇の項では安曇族が絡んでいる
磐井の乱以前の日本書紀には 神功皇后が西方に宝の国を求めた際 諸国に命じて船舶と兵を集め西方の宝の国を探した際 まず 吾瓮海人烏摩呂(あへのあまうまろ)に西の海に出して探させたら「国は見えない」と報告した。念のため志賀島の海人(安曇族)に確認させたら 何日か後に帰って来て「山があるので国があるでしょう」と報告した。
吾瓮海人烏摩呂は なぜ宝の国を探せなかったのだろうか。彼が対馬海流や潮汐流を知らない海人だった可能性も考えられる。だから 対馬海流や潮汐流 それに吹く風を熟知している志賀島の海人(安曇磯良と言う別記述もある)に再調査させたのかもしれない。ともかく この対馬海流を知らない海人では横断出来ない。
また 日本書紀の応神天皇の項に「2年(推定394年)11月各地の海人が騒いで命に従わないので 阿曇連の先祖の大浜宿禰を遣わして騒ぎを鎮めさせて 大浜宿禰を海人の統率者とした」とある。
ともかく 神功皇后や応神天皇の項などに海人としての安曇族の名は出ているが磐井の名は出ていない。磐井は海人ではない。
麁火が率いる朝廷軍の食料補給は?
繰り返しになるが 書紀に527年11月 磐井と麁火は筑紫の三井郡(現在の小郡市)で交戦して磐井を鎮圧したとあり 同年12月に磐井の息子葛子は 父の罪に連座して殺されることを恐れて糟屋の屯倉を献上して死罪を免れたとあるが 両軍が戦った三井郡への進路は 地形から見て次のコースが考えられる。
おそらく 磐井の軍は 川舟(平底)を使って 現在の八女市付近から広川を使って筑後川に出て 筑後川の支流の宝満川を北上する。一方 麁火の軍は 博多湾側から御笠川を伝って南下し 現在の西鉄電車朝倉街道付近を通って宝満川の支流(山口川)を下って さらに宝満川を南下する進軍だったと考えていいだろう。
それはそれとして 兵士の食料補給についての記録は何もない。両軍とも川と船を使っての補給は考えられるが 補給源について 磐井軍は地元だけに何とかなっただろうが 麁火軍は継体天皇から磐井への出陣命令を受けたのは527年8月 戦火を交えたのは翌528年年11月 この間 1年3ヶ月ほどの間の食料や筑紫の国へ進軍してからの食料補給が出来なければ戦火を交えることが出来なかったはずだ。
麁火は まず糟屋の屯倉を奪ったのでは?
考えられることは 糟屋の屯倉には食料が蓄えられていた。だから 麁火は まず磐井の出先機関とも支社とも言える糟屋にあった屯倉を襲って管理責任者の葛子に「屯倉を明け渡すなら命は奪わない」と言って屯倉を奪い 食料補給源としたと考えられないか(考えられる)。日本書紀は 磐井との戦いを朝廷に背く乱として扱い 朝廷の正当性を後世へ伝えるために 糟屋の屯倉の扱いを磐井陥落後にずらし 屯倉を献上して助命を乞う葛子を許した寛大さとして記述したと考えると 麁火軍の食料補給源の疑問は解決する。
磐井の乱の起因を推理する
大和朝廷の目的は交易実権
戦いには囲碁型と将棋型の二つのタイプがある。囲碁は地を広く取った方が勝 将棋は相手の王を取った方が勝になる。磐井の乱では敗戦後も磐井の墓と言われている岩戸山古墳の造成工事が継続されている。と言うことは 大和朝廷は磐井の地を奪っていないことになる。だから 磐井の乱は 磐井の土地を奪う囲碁型でなくトップの磐井の命を奪えば戦いが終わる将棋型戦争だった。
では 大和朝廷が磐井を攻めた目的は何だったのだろうか。日本書紀には「大和朝廷の軍が 朝鮮半島の任那が新羅に奪われた土地を取り返してやろうと朝鮮半島へ向かったとき その航海を磐井が妨害したので磐井を攻めた」旨記述されている。そうすると大和朝廷は 磐井の土地を奪う囲碁型戦闘でなく磐井の命を奪えば磐井の組織は壊滅する と考えて将棋型戦闘を採ったことになる。
つまり 磐井の乱は 九州と朝鮮半島を行き来する航路の制海権の争奪戦だったと言える。当時 両陣営とも 現代的な海軍を持っていたわけではないから 何か争い事が起きたときに陸軍も海軍も兼ね備えた武力を有していたのだろう。
では なぜ大和朝廷にしろ磐井にしろ九州と朝鮮半島との航海を重視したのだろうか。それは 当時食糧増産のための稲作水田開発に必要な鉄製農耕具 勢力拡大に必要な鉄製武器 これらの入手先が中国大陸や朝鮮半島に限定されていた。 そのために 日本列島と朝鮮半島の百済や新羅との交易に関わる航路を支配する制海権は重大事項であったと解すると納得出来る。
交易に欠かせないは実績と信頼関係
交易は取引だから相手と合意出来ないと成り立たない。合意と言えば聞こえは良いが あるときは下手に出てお願いし また あるときは上から脅しをかける等々の交渉力が欠かせない。これは現代の商取引でも同じ事だ。
交渉が壊れると武力を使って奪い取る取引の事例としては 古くは力で各地を恐怖に陥れた倭寇やバイキングがあるし 身近な例としては 一昔前の押し売り等がその典型的な表われだ。だから 交易には必要最小限の武力が欠かせなかった。だが 商取引で最も大切なことは信頼 とりわけ長年の実績が信頼につながる。
もう一つ 当時の交易で大切なことは 物々交換だから磐井にしろ大和朝廷にしろ朝鮮半島の百済や新羅などが欲しがる物を持参しなけれ彼らと取引はできない。当時 その日本列島の産物で朝鮮半島が欲しがる物は水銀。日本列島で水銀の鉱脈は 九州から四国を通って紀伊半島を抜けて東海へ走っている中央構造線に沿っている。大和朝廷は水銀の生産を基に発達した向きがあるが この水銀の話は別稿にする。
交易の実績をもつ安曇族
安曇族の大雑把な由来は 中国大陸の春秋時代 呉は中国大陸の覇者となるが 紀元前473年に 呉は仇敵の越に敗れ 呉王の夫差の自決で長年続いた呉越戦争は終結したとされている。だが 呉の残党は日本列島の北部九州へ逃避して 平底の船を上げ下げできる浜辺や河川がある現在の福津市・古賀市・新宮町付近を根拠地に越への報復を目指す。これが安曇族と称される集団だ。安曇族は 越への報復(リベンジ)を目的に中国大陸へ出かける。観光旅行じゃないから塩の売り込みなどの交易と並行して越の動きを探り その帰りの航海で呉の残党や水田稲作農耕民等を日本列島へ移住させ それが日本列島の弥生時代を拓く原動力になった。BC334年に呉の仇敵越が楚に滅ぼされて滅亡したので これで呉越戦争に終止符が打たれ 以降 安曇族は交易に専念する。
その後 前漢の武帝(BC141~87年)が朝鮮半島の鉄資源に目を付けて四郡(楽浪・玄菟・臨屯真番郡)を置く 以降鉄資源開発が進み鉄製品の開発も進む。さらに武帝は鉄・塩・酒を専売として民間の生産を禁止し 塩官・鉄官と言う役所を設置して密造を監視する厳しい体制を採った。
そうすると 中国大陸で塩の民間生産が無くなり 商人は日本列島で生産した塩の密輸入で利益を上げる。だから安曇族の交易は中国大陸の商人に密かに歓迎された。前漢を王莽が倒して新を建国するが王莽の一代で終わる。塩鉄専売制の陰で密交易で稼いだ商人達の支援もあって光武帝の後漢が成立すると 西暦57年に 奴国王(安曇族)は光武帝から金印紫綬(「漢倭奴国王」)を授かっている。
こうやって安曇族と中国大陸との交易歴を眺めると 磐井の乱当時で 1000年ほど金印紫綬から見ても500年ほど前から安曇族は中国大陸と交易してきた交易歴をもっている。言い換えると 日本列島の海商として信頼を築いて来たことになる。この海商安曇族は朝鮮半島で生産された鉄製品の輸入でも活躍できた。
交易実績がない大和朝廷
大和朝廷は 鉄器を輸入して農業生産の増大を図ることと武力を強めて支配下をより広くすることを目指す。そのためには朝鮮半島からの鉄器具の輸入は不可欠だった。だから 大和朝廷は朝鮮半島との交易を進め鉄器の入手を急いだ。輸出は奈良盆地周辺で生産出来る水銀で対応できた。ただし 交易に使う船は何とかなったとして その水銀を積んで対馬海峡を渡る操船術や航海術を身に付けた乗組員の確保に苦慮した。それに交易の歴史が短いので信頼関係が薄く 足元を見られて不利な取引を強いられたことだろう。大和朝廷は安曇族のような海商を抱えていなかったのだ。
大和朝廷は この朝鮮半島での不利な取引を解消するには 実績がある安曇族を使っての取引が必須だと考えたとしても不思議ではない。そこで 安曇族と親密なコンビを組んで中国大陸や朝鮮半島と交易をしている磐井を排除する必要が生じてきた。それに 磐井がより多くの鉄器を得れば軍事力も強まり大和朝廷にとって脅威になる。そこで磐井を討つ考えが浮かび 磐井が朝廷に背いたとして征伐に踏み切った。磐井としては中央構造線に沿った水銀採取で大和朝廷と競合していたが大和朝廷に刃向かう必要性は無かった。
だから 磐井の乱の目的は 朝鮮半島を対象にした交易の争奪であって 領地の問題ではなかった。当時 長年(1000年程)培ってきた交易実績をもつ安曇族を頼らないと 交易が旨く行かなかったのだ。
大和朝廷は磐井を討った後 安曇族を使っての交易を進めても 本来磐井派の安曇族だから いつまでも安曇族を使うわけにはいかない。そこで独自の海商を育てる策を採った。船は鉄製品の普及で造船技術が進み それまで平底の丸木船や桴から竜骨を備えた尖底船に置き換わっていた。だから それまで船を浜辺など陸上に上げていた船の停泊地を波浪を避けて河川や河口を停泊地に移していた。安曇族の船舶停泊地の主力は それまでの現在の福津市・古賀市・新宮町の浜辺から主力が博多湾に流れ込む河川や現在の宗像市を流れる釣川へ移っていた。その釣川へ移った集団から宗像族が生まれる。大和朝廷は この宗像族を交易業者に組み込んで共に発展していった(1例:天武天皇は胸形君徳善を娶る)。その結果 朝廷にとって交易業者として安曇族の必要性が無くなり削減策を採った。
その表われが 663年に負け戦の白村江の戦いの主戦力として安曇比羅夫を使った戦いの結果 安曇族は大きな痛手を負った。それでも安曇族は若い航海士(船頭)を育てていたが 720年代に対馬の防人への食料輸送を受け持った船頭荒雄の遭難で安曇族は海商の力を失う。なお この荒雄の遭難については 万葉集「筑前国志賀の白水郎の歌十首(724~729年)」にある。また 中央政権の下で従事していた安曇族は 792年に奉膳職の阿曇継成が神事で争い事を起した罪で佐渡島へ流され これで安曇族は中央政権の職も失う。その結果 海商としての安曇族は日本の歴史記録から消えていった。 なお 磐井と安曇族の関係は別稿で記述する。
この安曇族の衰退は 磐井との関係で始まった大和朝廷の大策略と見ることも出来ようが 大和朝廷にそれほど長期にわたる策を出して実行する能力があったとは考えられない。むしろ 今日の企業の振興や衰退に照らして見ると 時流を捉えて乗るか乗れないかに左右された結果だろう。
参考:記紀の神々の誕生の項で 阿曇族の神は底・中・上の垂直三層から生れたとして 宗像族は奥津(沖)・中津・邊水の水平三域から生まれたと両族の出自をわざわざ分けて表している。
日本列島では石器から青銅器を経ないで鉄器に移行
日本列島には青銅製の農耕具の出土はないが AD1~2世紀には鉄製の方形鍬・鋤先が出土しているそうだ。鉄製の鋤や鍬は 日本列島で鉄鉱石は生産されていないから鉄器の多くは中国大陸や朝鮮半島からの舶来品か鉄鉱石かスクラップを輸入して列島列島で製作したことになる。なお 日本列島産の砂鉄を使った鉄製品が作られるようになったのは古墳時代に入って砂鉄利用のタタラができてからだ。
一方 磐井の地の古墳に在る石人・石像などは 熊本県阿蘇石(阿蘇凝灰岩)を持って来て作られている。これらの石人・石像は 鉄製工具がなければ採石も石像も造れないから 磐井の地では鉄製工具を使っていた。
中国大陸にも朝鮮半島にもない
200年代の諏訪川グループ(大牟田市南接熊本県)の潜塚 300年代に三池北部グループの黒崎観世音(いずれも矢部川南で諏訪川は熊本県) 400年代に石人山 500年代に岩戸山 等古墳古墳(図:柳沢一男より)

岩戸山古墳造りの目的
インターネットに すぐわかる先生の仕事と言う項があって「中2歴史:岩戸山古墳が作られ続けたのはなぜ?」と題して 古墳時代の支配者と被支配者の関係を生徒に考えさせる授業(2024.01.17)の記載がある(https://tiger-lucky/1139)。そこで 私も70年ほど時計を逆戻りして中2の授業をつまみ食いしながら考えみた。それを参考のため記載する。
中2の授業1
巨大古墳の造営は 次の3点①②③から多くの人を動かす権力者の存在を示すと考えられる とある。
① 巨大古墳の造営には 多くの人々の労働力が不可欠だった
② 巨大古墳の造営には 多くの資源の調達が必要だった
③ 巨大古墳の造営は 複雑な技術や組織を必要とした
私:①②③に首肯 そのとおり。
中2の授業2
岩戸山古墳からは 副葬品として鉄剣 鉄刀 鉄鏃 鏡 勾玉 管玉 埴輪が出土した。この副葬品から埋葬者は 6世紀初頭の有力な首長と考えられ筑紫君磐井とされている。磐井は九州北部で勢力を拡大した豪族で ヤマト王権に反乱を起したことでも知られている。岩戸山古墳の巨大な規模は 古代国家形成の過程を示す重要な遺跡で 当時の権力者の強力な支配力を示している。
私:「反乱を起した」と「権力者の強力な支配力」の表現に「オャ」と首を傾げた。
中2の授業3
磐井の乱の原因は謎が多く次の二つの説が有力として
①新羅との結びつきを強めて 九州北部における勢力を拡大しようとした磐井と 朝鮮半島における勢力拡大を目指すヤマト王権の対立。
②朝鮮半島への出兵に伴う磐井らへの軍役や負担への反発。
私:根拠不明確につき①の新羅との云々も②の軍役負担も疑問
中2の授業4
磐井の乱の終了後も 岩戸山古墳の築造を続けたのはなぜか?として 次の3説を生徒へ提示して「岩戸山古墳が作られ続けた3説について 自分の考えをまとめよう」と 3説から選び その根拠をしっかり書くよう促している。
①継体天皇が磐井の墓を作り続けることを認めた説
②継体天皇が岩戸山古墳を作り続けることを止められなかった説
③継体天皇にばれないように 岩戸山古墳を作り続けた説
私:この課題を3説の回答に限定していることに疑問。そこで別途私の考えを次のとおり書いた。合格点は無理か?
中2の生徒に成きって考える
動物 植物 ウイルス等も含めて 新天地に入ると自分の仲間(同種)の数を増やすこと(繁殖・繁栄)に努める(第一段階)。そのためには食料や栄養源の確保・増産に励む(第二段階)。食料・栄養源の生産が上限に達すると 個体密度(数)も上限に達する(第三段階)。 そうするとその種は それ以上増やすためには新天地を求めての移動か 同一空間内での種間紛争を起す(第四段階)。紛争した結果 序列が決まる(ヒエラルキー)。これは動植物もヒトにも当てはまる定理と言える。
この定理に基づくと 先の中学2年生の生徒に授業4で与えられた三つの説①②③だけでは答が出てこない。何故かと言えば 主君の磐井君が継体天皇に滅ぼされた後も 磐井君の根拠地(八女市)で岩戸山古墳づくりを継続していたと言う史実と 磐井の国がまだ第二段階の食糧増産のための水田開発工事の一環に当てはまる可能性があるからだ。言い換えると 古墳造りは 次に引用した湯川清光さんの指摘のように主君らの墓づくりだけが目的ではなく水田開発工事の一環だったとも考えられるからだ。
古墳造の当初の目的は水田開発
古墳造りは水田開発に伴う土木工事(定理の第二段階に該当)で生まれたのでは と言う考えを湯川清光さんが「古墳の土木技術(農土誌1984年52-9」に書いている。また 田久保晃も水田開発のための溜池づくりで掘った土を盛り上げ その盛り上げた土を古墳として活用した旨の研究報告(2019年JAGREE97)を書いている。
湯川さんは 大阪府の河内と奈良県の大和地区にある主要古墳22基を調べて 古墳は権力者の示威的記念碑であり かつ 古墳に付随する水利施設は生産手段でもあるとし 古墳づくりが記念碑と生産手段では目的が根本的に違うが構造物自体には共通性があると言う(下段の注記を参照)。まず生産上の必要性から水利構造物が先行し その後この技術を利用して権力者の記念碑へ進展したものと思われる と言ったことを書いている。
注記:後述するが 生産手段と記念碑づくりは関連深く むしろ順当な経過である。
米は通貨 米の増産が領主の重要政策
ところで 話は変る。江戸時代 大名は百姓(生産者)に米を納めさせ(税金)家臣に配布した。○○万石大名 300石の家臣などの表現の石高は米の量を示している。貨幣がない6世紀の磐井の時代も米が 現代の貨幣と同じように使われていた可能性は高い。
余談を入れると 戦後の昭和25年頃 筆者の小学校修学旅行は米○合持参で 現金は通用しないキャシュレスだった。
弥生時代から古墳時代に移ったこの磐井の乱の時代は 貨幣は無いから おそらく米が通貨代わりに使われていた可能性が高い。米を沢山持っていれば その米と水銀等を交換し その水銀を持って朝鮮半島へ行って鉄製の農耕具や武器などと交換する交易が成り立った可能性も考えられる。ともかく米の増産は 領主(地域)の発展に欠かせない要素だったはずだ。だから米の増産に結びつく水田開発は領主にとって大切な課題だったはずだ。磐井も領主として水田開発策を採ったであろう。
こう考えると 先の湯川さんや田久保さんが言う「古墳造の当初の目的は水田開発で 古墳造は水田開発に伴う土木工事」と言う考えは成り立つ。
水田開発は渇水や洪水の被害を受けない土地づくり
筑後川水系や矢部川水系など有明海に注ぐ河川を有する筑後平野では 水路と流れる川の水を堰き止めて取水する井堰(関)やそこから水田へ水を送る水路 それに付随する土手などの施設が要る。古墳時代の筑後平野でも水田対策が採られたはずだ。(小嶋篤の岩戸山古墳築造と連結する生活基盤の拡充の図より)
また 磐井の根拠地(現在の八女市)を航空写真で俯瞰すると 筑後川の支流の広川の南側に沿って岩戸山古墳・石人山古墳・広化谷古墳などが点在している。その中でも磐井の墳墓とされている最大の岩戸山古墳は 北に広川 南に矢部川の間にあって現在でも田畑が広っている平地を見渡せる位置にある。
河川は梅雨期や台風による集中豪雨に見舞われれば氾濫する。近代の記録でも矢部川は1953年(昭和28年)2012年に氾濫して水害をもたらした。土手も無い時代 雨期になると川沿いの平地は洪水発生が常で 水田稲作は出来なかった。だから 記録には無いが 磐井の古墳時代 現在の八女市平野部は自然のままで堤防も無ければ 雨量が多いと矢部川などの河川から水があふれて洪水をもたらし水田稲作が出来ない平野だったであろう。洪水を防ぐ工事は 規模が大きいから個々の農耕民だけでは出来ない。領主の組織が抱えている知識や技術を持った人と工具が要る。
岩戸山古墳にある阿蘇溶結凝灰岩で作った石人や石馬の像は 現在の熊本県から八女市に凝灰石を運んで来て作成されている。これは 磐井の時代に組織立った石工集団が居たことと 石を切り出して加工する鉄製工具を使っていたことを物語る。
水田開発や古墳造りには 設計から施工の高度な知識と鉄製工具それに労働力が欠かせない。より広く水田を開発するには まず地形を熟知しなければならない。小高い山に登って俯瞰し 予定地を歩き回って目と足で得た知識を基に 水田開発の構想を練って設計に取りかからねばならない。当時はメモも取れなかっただろうから全て頭に入れて 治水工事 それに使える鉄製耕工具 労働力などを考慮して土地と水の最適利用を基に設計する。これだけ考えただけで 個々の農耕民に出来る工事ではない。水田開発工事の設計及び施工は当時の最先端の技術者が受け持ったはずだ。それが出来た技術者達は 八女の地から遠く離れた熊本県で阿蘇溶結凝灰石を切り出して 船などを使って八女の地まで運び込んでいた。それは石工技術者集団なら出来たのだろう。
その技術者集団を抱えていた磐井は 治水及び水田開発の設計施工を石工の技術集団に受け持たせて 現場工事の労働力に農閑期の農耕民を使って水田開発施策を施行した。そう考えられる。この新規水田開発は 治水と米の増産に結びつくので上記定理の第二段階に該当する。
藪内清さんは「中国の古代の科学」(講談社学術文庫)で 中国の伝説上の話とも実在とも言われる堯舜禹の時代に 禹は献身的治水の効で王に就き その後禹王朝(紀元前2100年から1600年頃)が17代続いた。また 「中国には河を治めるものは国を支配する」と言う言葉があるが これは中国の水害を一見すれば 確かにそうだと思うに違いないと言う。
磐井君は名君だった
私たちにとって衣食住が満たされることが大切だと言われているし また実感している。ただ 人はこの衣食住が満たされれば幸せかと言えば そうとは言えない。なぜなら 人は精神的に安心安全を求めているからだ。
私たち日本人の生活を思い浮かべると 家の外に神社・寺院・教会など それに個人的にも 外に墓を持ち 家の中に神棚 仏壇 位牌 遺影などがある。これらは 衣食住に該当しない。でも 生活になくてはならない大切なものだ。
この安心安全を得る為に なぜ 経済的な潤いの対象外のご先祖様を大切にするのだろうか。考えて見ると不思議なことだ。私たち人は洋の東西を問わず 皮膚の白黒褐色を問わず いわゆる「ゴッド」を大切にする。
この経済的に直接価値の無い「ゴッド」を大切にする考えや気持は 新田耕作地が領主の策で開発されて耕作者が潤えば 耕作者は 自然発生的に新田開発に功を奏した者を「ゴッド」として崇める。これは人が生きていく上で衣食住に該当しない安心安全の気持の表われで 定理とも言えそうだ。
もし逆に 水田耕作者が苦労して開発した水田からの生産物を搾り取る領主が居たとすれば 耕作者は一揆を起すか逃避するか等の手段を採る可能性が生じ 「ゴッド」と真逆の存在になる。
この「ゴッド」の有無で考えると 岩戸山古墳は 現在の八女市に広がる矢部川の北の平地(水田耕作地)を見守ってくださる「ゴッド」として存在し 農耕民が崇める地として存在する。
先に 湯川さんは 古墳づくりと生産手段の水田開発は目的が根本的に違うが構造物自体には共通性がある旨書いているが 農耕民にとって水田が開発されて より米の生産量が増えて生活が潤えば その水田開発政策を進めてくれた磐井君を「ゴッド」扱いして古墳造りに力を出すのは自然の成り行きだろう。逆に言うと 石土山古墳が農耕民に崇められているのであれば 磐井君は 地元の現在の八女市周辺の名君であった証であると言えよう。
磐井が不在となった以降も磐戸山古墳の造成工事が続けられたそうだが このことについて 磐井を慕う人々が居た表われとも言われるが 矢部川の治水と水田開発を継続して進めていたとも考えられる。
なお 航空写真で俯瞰すると岩戸山古墳の側に溜池らしき物が見える。これが何時の時代に作られたかは解らないが 河川沿いの平地であっても 渇水期の水不足に備えてのものであろう。
以上の考えから推すと 磐井の乱以降の岩戸山古墳の造成については 先の中2に課した継体天皇云々の回答事例①②③には当てはまらない。以上が 私が中2に成り切ってこの課題に取り組んだ回答になる。
追記
広辞苑に磐井の乱は 「六世紀前半 継体天皇の時代に 筑紫国造磐井(石井)が北九州に起した叛乱」とある。また「反乱・叛乱」は「支配体制や上からの統率にそむいて乱を起すこと」乱は「世の乱れること。戦争。騒動。」とある。
高校日本史(2011年山川出版社)に磐井の乱は「六世紀の初め 九州の筑紫国造の磐井が 新羅と結んでヤマト政権に反乱を起し ヤマト政権は 物部氏を派遣してこれを制圧した」とある。
磐井が大和へ兵を進めたのであれば 謀反であろうが 逆に大和朝廷が磐井を攻めたのだから 支配下として治めるための征伐であろう。
ともかく 磐井を大和朝廷への反乱者として決めつけている高校日本史 中2の授業 今後の若者への教育方針として再考する余地がある。
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